今更ながらアンリアレイジ2015SSについてのおはなし
少し前の話になるのですが、伊勢丹をプラプラしていたらアンリアレイジのビッグTシャツが目について、思わず買ってしまった。
人生初アンリアレイジ。
正直、ぼくが「本格的に」ファッションを好きになったのは大学に入ってからなので、かなりのニワカというかビギナーというか、まあそういった感じで、なおかつ大学の学部は情報系、理系オタクの極北的な環境に生息しているため周囲にファッションに明るいニンゲンが存在するわけもなく、よって独学でファッションについて学んできたいや学ばざるを得なかったのですが、そんなぼくでさえもアンリアレイジについては知っていたので、アンリアレイジさんはスゴイ(竜頭蛇尾)
自分が買ったもの(ブランド)についてクソほど調べることは、ファッションについて学んでゆく中で大切であるように感じます。
自分が買ったものについて詳らかに知っておくのは気分がいいし、何よりウンチクで理論武装しながら服を着る、これが最高に気分を上げてくれる。
選んで買ったものだし、愛着は少なからずあるでしょうから、調べるモチベーション保てますしね。
で、調べていくうちに芋蔓式に他のブランドとの関係性、背景の因果関係が明確になってゆき、ファッションに関する造詣が深まってゆく。
こういったオタク気質を満足させる機能がファッションには備わっているので、服装についてデフォルトで無頓着なオタクたちはファッション・オタクに容易に転じることができると思うのですが、それはまた別のおはなし。
ということで、伊勢丹でビッグTシャツを購入したあと、ふんわりとしか知らなかったアンリアレイジの知識を深めるためにGoogleさんを用いてワクワクしながら調べてみました。
以下、ファッションプレスさんからの引用。
ブランドのはじまり
森永邦彦がブランド「アンリアレイジ」を設立。アンリアレイジについて
森永邦彦は1980年東京生まれ。早稲田大学入学。当時同校には「ケイスケ カンダ」の神田恵介、「トウキョウリッパー」の佐藤秀明らが在籍していた。卒業後はバンタンキャリアスクールで学ぶ。2003年、ブランド「アンリアレイジ」を設立。2005年にIFFにてSENKENアッシュ大賞を受賞する。その後ニューヨークで開催された新人デザイナーコンテスト「GEN ART 2005」でアバンギャルド部門大賞を受賞。
同年11月、東京タワー大展望台を会場にしたコレクションで注目を集め、06年A/Wコレクションにて、アルファベット26文字のフォルムをモチーフにしたデザインをインスタレーション形式で発表。07年S/Sコレクションより、再びランウェイコレクションを発表。
ディテールはもちろん、雰囲気などさまざまな角度でスタイルを提案する。「服やショーを4次元的にとらえる。その4次元的な空間が作りたくてショーをやっている」と語っている。「神は細部に宿る」がブランドのコンセプト。
2007年、NTTドコモの広告キャラクター「ドコモダケ」をモチーフにしたアート展がニューヨークで開催。森永邦彦もこの企画にコラボレートした。
2011SSコレクションでは2年ぶりにショー形式でコレクションを発表。形がない「くうき」をかたちとして表現するスタイルで大きな話題を集めた。
アンリアレイジについて調べる中で、ぼくが何よりも感じたのは「メチャクチャにテーマが分かりやすいな」ということ。
毎回コンセプチュアルなテーマを設定しているアンリアレイジは、例えば「◯△□(2009年SS)」では、トルソーの役割を球体または三角形、または四角形が担った服を作っており、まさにテーマ通り丸三角四角、非常に分かりやすい(球体シャツ欲しい)
あらゆるインタビューでコムデギャルソンの影響を口外している森永邦彦さんですが、お師匠さまである川久保玲は、哲学科の出自が関係しているのかどうか定かではないけれど難解な服作りに定評があり、とても対照的であるように思います。
コンセプチュアルって部分では一致しているんでしょうけれど。
話は少し変わって。
ここまで人間的でない、愛のない批評を書ける精神構造に戦慄せざるを得ないのですが、
Anrealageというブランドのデザイナー森永氏は発言やクリエーションから間違いなくUndercover越しにComme des Garconsを見ており、主観としては後継者である自負を持っているのだろう。
という言葉にはなるほどなあと思いました。
コムデギャルソンとアンリアレイジは歴史的に連続性はなく、どちらかといえばアンダーカバーを筆頭にした裏原ブームの洗礼を受けているはずですもんね。
アンリアレイジはとても「叩きやすいブランド」なのかな、と思います。
分かりやすいコレクション、発想ありき(であるかのように見える)の個性的な服、パクリ(オマージュ?)的手法、支持するボリュームゾーンが若年層、他にもたくさんの「叩きやすいファクター」があるからこそ、叩かれる。
分かりやすいってことは「深読みする必要すらない」と思われる可能性を孕んでいるので、ある意味で危険なのです。
深読みすることが仕事である批評家のお歴々には退屈なコレクションに感じてしまうかもしれないわけで。
ファーストインプレッション大事!
ぼく個人的には、天下の伊勢丹さまが買い付けているのだから素晴らしいブランドなのだと考えています。
天下の伊勢丹さまですよ。
天下の伊勢丹さまの言うことに間違いはない。
オールハイルブリタニア!
こういった意見もあります。
確かに「黒の衝撃」に対する「白の衝撃」というアンチテーゼ、と書き立てられがちですが、よくよく考えてみると、アンリアレイジの2015SSコレクション「SHADOW」は「黒の衝撃」に対するカウンターとして全く機能していませんもんね。
テーマである「SHADOW(邦題:光)」は「黒の衝撃」に対する色彩的な、ビジュアル的な意味では対照的ですけれど、本質的な部分で「黒の衝撃」に対する対義語であるのか、と問われるとなんか違う気がしませんか。
ってかそもそも「黒の衝撃」に対するアンチテーゼとはなんぞ。
そんなもん存在すんのか。
そういった意味ではkeisuke kandaへのアンサー、という考えはスッと入ってきました。
キム・ジョーンズが行った【ネメスへのコレクション】的な?
違うか。
コレクションの意味、服の意味というのは、作った本人にしか分かるわけがなく、そういった中で当然重要になるのは「大多数がそれを見てどう感じるか」ということ。
大多数のひとが「素晴らしいコレクションだった」と思って、それが世論の意見になって、服が売れる。
そういう流れを手にしないと、究極的には売り上げが全ての世界なのだから、淘汰されてしまう。
「ホントはこういう意味を持たせて、こういう考えで作ったんだ!」と声高に叫んでも、その叫びに意味はなく、大多数が感じる「意味」にこそ意味がある世界。
改めて物作りは難しすぎる。
そういえば、神田恵介さんと森永邦彦さん、早稲田の同窓生だったんですね。
大好きなシトウレイさんの著書「日々是東京百景」にシトウさん、神田さん、森永さんの対談が載っていました。
その中に書いてある、「10年後の3人の姿とは?」というお題での一コマ。
神田「森永は海外じゃない?」
シトウ「私も(森永くんは)海外だと思う」
森永「行きたいですよね。世界でやりたいと思います」
夢が叶ったアンリアレイジ。
これからどうなっていくんでしょうか。
俺たちの旅はまだ始まったばかりだ!(完)
ファッションにおける外しというエクスキューズ
で、まあ、いまスーツ×スニーカーが定番かどうかなんてどうでもよくて、ドレスコードとしてはスーツ×スニーカーは明らかにイリーガルで、傍流であることは間違いなく、外しであることもまた疑いようがない。
定番のスタイルからの外しというわけではなく、「既存の常識」からの外しといった意味で、スーツ×スニーカーは機能している。
ファッションに外しを取り入れるとき、外さないスタイル、すなわち主流を理解していることが肝要であると思う。
例えば今回に関していえば、一応スーツのセットアップなんだから中はシャツ、足元は革靴、がシンプルに主流だ。
ぼくはスニーカーならそれなりの数持ってるものの、こと革靴に関してはほとんど持ち駒がない。
ドレス度の高いシャツも持ってない。
つまり、ぼくは「あえて」とか「外し」でスーツにスニーカーを合わせるスタイルに惹かれたけれど、その実、合わせるための”本物”を持っていないから、必然的に外すしかないのである。
主流を知らない・持っていないひとが行う外しは、エクスキューズ、言い訳だ。
「これは外しだからね、オシャレでしょ!」という言葉は、持たざる者の言い訳に過ぎない。
ファッションは自由だから何着たっていいじゃんって意見もあるけれど、それなら敢えて「これは外しだからね、オシャレでしょ!」って傷つかないための予防線を張るんじゃなくて、持たざる者は持たざる者なりに、ステキなものを持ち合わせてないからスニーカー履くしかなかったんだ、と惨めに認めるべきだ。
何より主流を理解していなければ、自分のコーディネートとメインストリームとの差の絶対値をうまく掴めず、なんだか的外れな格好をしてしまうことになりかねない。
と、ぼくは上記のように考えたので、未だにYAECAのセットアップはクローゼットに収納したままで、一度も袖を通していない。
競馬で一山当てたら”主流”を一式揃えて、悪魔的にカッコ良いスーツスタイルをキメようと目論んでいます。
待ってろ日本ダービー。
蛇足までに。
ぼくたち若者世代はおおきなものがたり(要出典)が消失したあとのセカイに産まれてきて、「サンプリングとエディットであらゆる領域を再定義した」リミックス世代の寵児なので、価値観の相反するものをハロハロすることに抵抗がない。
今回のスーツの話にしたって外しをすんなり受け入れられるのも、ぼくたち世代特有の感性なのかなって思ったり思わなかったり。
ファクトリーブランドのススメ
BASISBROEKのコート。
写真じゃ伝わり辛いけれど生地はコットンとシルクで、独特の光沢がモードな格好にも合うし、フツーにカジュアルっぽくも着れるしステキやん。
全体的に野暮ったく作られたシルエットだったり、サイドにとられたベントだったり、いちいちツボが多いので気に入っている。
BASISBROEKはベルギーのファクトリーブランドで、ブランド名はオランダ語で「ベーシックなパンツ」って意味だとか。
ここでファクトリーブランドとはなんぞやと。
ファクトリーブランド(ファクトリーブランド)とは - コトバンク
例えば、インバーティアというファクトリーブランドがあって、ここは一時期エルメスのダッフルコートを作っていたこともある(正確にはムーアブルックという生地会社に買収されていた時期に作っていた)
ファクトリーブランドを買えば、デザインやタグは違うけれど、品質としてはメゾンブランドとほぼ同価値のものを格安で手に入れられるってわけ。
どこのOEM製品作ってるのかな〜ってワクワク考える楽しさこそ、ファクトリーブランドの醍醐味である。
BASISBROEKはベルギー製。
もしかしてマルジェラやらアントワープ系のブランドも請け負ってたりして。
ムフフ。
塩ビ加工ショップバッグ
録画してた長門有希ちゃんの消失があまりに退屈だったので完全にキレた。
かといってハルヒ世代という矜持もあるし、なにより視聴マラソンの棄権は不敬であるとしておたくに断罪されかねないのでBGM代わりに聴き流しつつ、適当にブラウジングしていたらたまたま発見した記事。
情報は鮮度が命のこの時代に10日以上前の記事を取り上げるのは如何がなものか。
とりあえず、ギャルソンの塩ビ加工ショップバッグが売れているらしい。
まあ売れるでしょうねとは思うけれどここまでコムデギャルソンのブランド性を前面に押し出した感じ、ギャルソニスタなみなさんなら鼻で笑って絶対買わんだろうな。
ぼくはミーハーなのでちょっと欲しくなりました。
こんな"分かりやすい"商品、ミーハー精神に完全クリティカルヒットするでしょ。
とはいえギャルソンを記号として消費する行為にはなんだか違和感がある。
日本を代表する、というか総合的に鑑みて日本一のブランドだとは思うけれど、伊勢丹が言うところの「インターナショナルクリエーターズ」クラスではブランド名の切り売りは背丈に合ってない感じがするし、なによりその商業主義の香りがギャルソン哲学から外れている感じがして鼻につく。
この「ギャルソン!!!!!!」を前面に押し出す感じ、CDGのコーチジャケットと相通ずるものを感じる。
GoodDesignShopに置いてる(置いてた)このジャケット、コレクションのときにコムデギャルソンのスタッフが着用していたとかいう逸話があるらしい。
このコーチジャケットに関しては、ぼくの大学に(自称)大学イチオシャレな知り合い(顔見知り)がいて、そいつがドヤ顔でこれ着てていたたまれない気持ちになった思い出しかないけれど、結局のところ何が言いたいのかといえば「ブランド名を売る」という今回のテーマに着地したいがためにエピソードトークをしてみたはいいが、どうもウマく収集がつかなそうなのでエイヤッと力づくで話を本筋に戻そう。
エイヤッ!
ブランドを記号として売ることの最もポピュラーな例はライセンス商品の展開であると思う。
場末のデパート、その婦人雑貨売り場に置いてるサンローランやらディオールのハンカチ、中高生が付けがちなヴィヴィアンなんかのバカみたいにゴツくてバカみたいにダサい時計、ああいったものがライセンス商品である。
あるブランドが他者に「自社ブランド名義の商品を売る権利」を売る。
その結果誕生するのがライセンス商品である。
とはいったもののこの定義はぼくなりの曲解である可能性が高いので詳しくはこちらで。
なぜライセンス商品を展開するのか、ライセンス商品が増えれば増えるほどそれだけブランド価値が下がりそうなのに、とふつうなら思うけれど、ライセンス料はバカにならないからブランド側はやりたいし、ライセンス商品を売る側からすれば楽して商品が売れるからしめたもの。
完全なWinWinの関係が成り立っているからライセンス商品はセイタカアワダチソウのごとく蔓延していくってスンポーよ。
ブランドも資本主義という土俵で戦わなきゃいけない以上、第一義は「売り上げ」であり、オカネが何より大切。
だからこそファッションブランド各社は、ヒットすれば莫大なオカネが入ってくる金脈たる香水を発売したがるし、香水事業の失敗で斜陽となったブランドも数多くある。
ライセンス事業も「売り上げ」ということを考えたとき確実に必要なファクターであり、"分かりやすい"商品を売ることもまた必要なのだろう。
ギャルソンは、リーマンショック時にはブラックコムデギャルソンを立ち上げたり、"分かりやすい"ギャルソンの代名詞たるプレイも世界でバカ売れしていたりして、誰もがギャルソンを語る際に使う言葉だけど、本当に「ビジネスセンスが卓越している」と思う。
そのオカネでコレクションラインのクリエイションが維持できるってのもあるんだろうな。
今回の塩ビショップバッグの売り上げなんてプレイとブラックの売り上げと比べたら微々たるものだろうし、じゃあ結局のところ塩ビショップバッグが売り上げのためであるかどうかなんて分からんじゃん、って感じだけど、きっと小遣い稼ぎ程度には役立ってるんじゃない?(投げやり)
まあ、なんにせよ、この春夏、塩ビショップバッグを背負ったギャルソンミーハーたちが街中に大量発生することだけは、間違いないことである。
トーキョー・アメリカナイズ
サードウェーブ系男子について読んだ。
「サードウェーブ系男子」の特徴。
キャップ。
メガネ。
ノームコア。
バックパック。
ぼくがこれらを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、POPEYEが提案するシティボーイでした。
シティボーイにしたって、サードウェーブ系男子にしたって、結局のところ「雰囲気のオシャレ」です。
ライフスタイルやカルチャーにこだわりを持ち、そのこだわりから匂い立つ雰囲気をファッションとして身に纏うような、そんなオシャレ。
POPEYEの提案するシティボーイがサードウェーブ系男子disにかろうじて耐え得るのは、アメリカではなく東京発のカルチャーをバックボーンとして「東京のシティボーイ像」を作ろうと画策しているからではないでしょうか。
海外のまがい物ではない、確固たるカルチャーがそこにある安定感。
それでもシティボーイ像はまだ未完成なので、もっと洗練された概念にする必要もあるんでしょうけれど(メッチャ偉そう)
ぼく自身、大学初年度にはPOPEYEの提案するシティボーイに完全にやられ、「クッソ格好良いじゃん!これからはシティボーイの時代だ!」と、オリバーピープルズの丸眼鏡を掛けて滑れもしないペニーを片手に持ち、コンドームみたいなニットキャップ・白のポケットT・リジットデニムの三点セットで一丁上がり、なテンプレシティーボーイだった時期がありました。
完全にあの頃は何かをこじらせていた。
サードウェーブ系男子が揶揄される原因は、帰属カルチャーに深く傾倒しているのではなく、あくまでカルチャーをファッションとして消費しようとする魂胆が見え透いているからだと思います。
カルチャーを愛することなくファッションとして楽しんでいるそのスタンスは、とてつもなく浅い。
カフェでのドヤリングにしたってそう、コーヒーを純粋に楽しむのではなくて、まずコーヒーショップにいる自分にオシャレを見出しているから始末に負えない。
ブルーボトルコーヒーに出入りするような野郎どもに違和感を得ていた人々は、辛酸なめ子の卓越したネーミングセンスが産んだ「サードウェーブ系男子」という力強い響きを後ろ盾に、更なるdisを展開することでしょう。
一度「サードウェーブ系男子」とラベリングされてしまった以上、彼らの陳腐化は免れない。
言葉の力は強大なのです。
サードウェーブ系男子たち自身もどこかしら自分たちの「浅さ」には気付いているはずで、その浅さを痛烈に炙り出すこの言葉の広がりとともに、【雰囲気をファッションとして消費する形態】は徐々に沈静化に向かうのかもしれません。
アノニマスなバックパックの射程距離
It's gotta be the shoes.
スニーカー文化論を読んだ。
ぼくの7億ある持論の内のひとつに「スニーカーマニアは制服校出身」というものがあります。
ぼく自身小、中、高、と制服校だったのですが、制服社会において、スニーカーは他人と差別化を図る重要なファクターでした。
制服という画一的なものを着ている以上、服装で自分の色を出すことはできない、でも靴だけは違う。
華美なものでないように、とか校則の縛りはあるものの、ある程度自由に個性を発揮できる。
生徒同士、それは共通の見解だったようで、お互いに個性の結晶であるスニーカーを見比べることでセンスを競い合ってたような、そんな思い出があります。
といってもぼくの地元はクソ田舎だったのでABCマートくらいしかスニーカーの量販店がなく、履いてるスニーカーがバッティングすることも非常に多かったのですが。
クラスに10人はいたオールスターの話はするな。
そしてそのスニーカーイコール個性の結晶、という定式化からオトナになっても脱することができず、「オシャレスニーカーさえ履いてればオシャレだべw」みたいなノリでスニーカーを神格化してるひとも少なからずいて、そんなひとたちがスニーカーマニアという集団を形成してたりしてなかったり。
で。
スニーカー文化論、スニーカーカルチャーの入門書として非常に面白い本でした。
スニーカーの歴史について特集する雑誌や本は多いけれど、たとえば「カートコバーンが履いていたのはジャックパーセル!」「ビートルズがアビィロードを歩いたのはスプリングコート!」「スニーカー大衆化の起爆剤になったのはジェームスディーン!」とか情報を断片的に取り上げはするものの、誌面の都合なのか、歴史全体を俯瞰して論じる書籍って意外に少なくて、だからこそこの本は、スニーカー文化についてざっくり知りたいなあという思いにジャストミートします。
スニーカー文化論。
ってタイトルもメッチャ清々しくて好感もてる。
おいライトノベル業界、お前らも見習え。
スポーツ、映画、グラフィック、音楽。
様々なカルチャーとスニーカーとの関係を、時折筆者の専攻である社会学のフィルターを通しながら解説していく。
ただ四章以降はSNSがどーのこーのとか、社会学について筆が滑り過ぎているので、スニーカー文化隆盛の流れをざっくり知りたいという方は、三章までで十二分じゃないでしょうか。
おわり。